主日礼拝説教:「今日を喜び祝う」詩編118編13−25節(旧957頁)

川上純平  2024・4・7

 

 

・この地域では恒例の年中行事となっています教会の近くを流れる八瀬川の桜が満開となりつつあります。まだ満開ではないわけですが、かなり花が開き始めています。先週の日曜日は春の暖かさの中にあって「イースター礼拝」を守ることが出来ました。本当に感謝のひと時であったことを想います。礼拝後に行われました「墓前礼拝」も良い天気に恵まれ汗を掻くほどでありました。

・今朝の主日礼拝は新年度最初の主日礼拝です。しかも今朝の主日礼拝の週報左下にも記されていますが、先週、主日の「イースター礼拝」から「復活節」という新しい一つの期節が始まりました。「復活節」は「救い主」である主イエスの復活の出来事が私たちの信仰生活にとって大切なものであることを語り、その出来事を想い祈る期節です。この事を覚えて歩みたいと思いますが、「福音書」で主イエスが逮捕され、十字架に架けられた際、主イエスの弟子たちもそれを取り巻く人々も皆、不安と絶望と悲しみの中にありました、主イエスが苦しまれ、彼らも違う意味でその時を過ごさなければならなかったことを想い起こします。そして、私たちの教会でも礼拝の中で唱えています「使徒信条」の中に「3日目に死人のうちより甦り」という文言がありますが、これは言うまでもなく主イエスが死から復活したことについて、「これは教会の信仰です」と告白している文言であるわけです。ただしばしばこれは現実の出来事を表す言葉としては受けとめられないということがキリスト教の歴史の中にもありました。なぜでしょうか?

・特に現代という時代に生きる私たちは一度死んだ人が甦るということはあり得ないと考えるものです。もっとも「臨死体験」や偶然の出来事や最新の医療技術等で、死んだ人が息を吹き返したというお話を皆さんはお聞きになったことがおありかもしれません。かつて私も綺麗な花が地面一面に咲いていて、手招きをして自分を呼ぶ声が聞こえる体験をしたという人のお話を聞いたことはあります。しかし、普通、そのようなことはあまり多くないわけです。

・一体、主イエスの「復活」の出来事とそれらの体験との違いは何でしょうか。主イエスの「復活」とは一体何を意味するのでしょうか。これはよく言われる「あの世」と「この世」のことかと言うと、そうではないようです。だからと言って「復活」の出来事は「この世的」な作り話でもありません。なぜなら福音書の中で現実に主イエスの弟子たちに対して死なれたはずの主イエスが復活され、姿を現され、そこから弟子たちの生き方はさらに祈りの信仰生活と教会設立、伝道へと変えられたからです。それでは主イエスの「復活」は弟子たちの思い込みだったのでしょうか。もしそうであるなら、彼らの思い込みだけでは主イエスの「復活」の出来事は伝えられず、「福音」(良い知らせ)にはなり得ないはずです。もちろんキリスト教も成立せず、到底、世界最大の宗教にはなり得ないわけです。ですから、主なる神の御業(みわざ:お働き)とは一体何なのかということがこれからも私たちには大切なことであるようなのです。

・先ほど司会者の方にお読みいただきました旧約聖書詩編118編の23節には「これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと」と記されています。この言葉が、ある聖書では「われらの目には ふしぎなことだ。」と訳されています。この事は主なる神のみ業(お働き)、それは人間の目から見れば、人の考えに照らせば「驚くべきこと」「不思議なこと」ということではないでしょうか。ただそれは単なる自然現象のようなものではないようです。

・この詩編はある人が主なる神への感謝を献げて歌ったものとされています。又は「わたし」という言葉を用いて「古代イスラエル」全体が主なる神への感謝を献げていることを歌ったものとされています。この讃美歌はユダヤ教の「過越祭」というお祭りで過越しの食事を囲み、出エジプトの出来事を物語る際にも歌われた讃美歌です。ですから、主イエスと弟子たちとの「最後の晩餐」の時に讃美歌として歌われたともされています。同時にまたおそらくユダヤ教の神殿における礼拝で合唱の形で歌われ、その時に「踊り」も踊られたと思われます。ですから、どのような音楽だったのだろうかと想像してしまいますが、この詩編のテーマは主なる神の変わらない「憐み」と「恵み」の告白であるとされています。その人々がこの詩編を感謝して賛美したのにはわけがあるわけです。主イエスの弟子たちが主イエス復活後に伝道を開始しました。その時、復活の出来事がなぜ伝えられたのでしょうか、それはお金がもらえるから、目立つことが出来るからということではありません。

・キリスト教の歴史の中でもこの詩編は愛されてきたようです。宗教改革者マルティン・ルターはこの詩編118編について「これは私の愛する詩編である。なぜなら、この詩編は実にしばしば私を支え、幾多の大きな艱難から私を助け出してくれたからだ。皇帝も王も知者も賢者も聖者も助けえなかったであろう時に」と語っています。この詩編は宗教改革運動の中でルターを助け出した詩編であったわけです。私たちも愛唱讃美歌、思い出の讃美歌があるかと思いますが、ルターにとってこの詩編は忘れられない讃美歌のようです。

・それで皆さん、ご存じのように先日、台湾で大震災がありました。被害に遭われた方々に主の慰めと癒しを祈りたいと思います。沖縄でも津波に襲われるということで危ぶまれました。最初のうちはこの地震の被害はたいしたことがないかのような情報が流されたわけですが、時間が経つにつれてかなりの被害が出ている事が分かって来ました。また建物の建て直しや耐震構造について説明がなされ、ここ数ヶ月の日本での各地での地震のことを想わされたわけです。台湾で被災された方々の避難所の状況が日本と比較されて環境整備が必要であることも語られました。

・その台湾の地震での建物の倒壊映像や画像をテレビ等で見た時に外国の出来事であるにもかかわらず、自らと関連付けて考えるということがなされたわけです。一方で、同時にそもそも建物を建てる、これは内容によっては一大事業でもあります。よくキリスト教会の会堂を建てる時に「クワ入れ」を行なうことがありますが、その際に聖書を土の中に埋めて会堂建築の土台作りとするという話を聞きます。教会は土台がしっかりしていなければ、どれほど立派な建物を建てても意味がないとも言えます。しかし、キリスト教会にとっての土台とは一体何でしょうか?

・聖書のこの箇所22節にある「家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。」という言葉は家を建てる時の土台となった石は一つの石を二つに切ったものを使って、建物の重みを二つの方向で支える石のことを記しています。これには固い石が用いられたとされています。同時にこの「隅の親石」とは捨てられた無益なものが最も重要なものとなったという意味の言葉であるとされています。新約聖書では救い主である主イエスがキリスト教会の頭となられたことを表わす言葉です。死刑判決を受けて十字架に架けられ殺されたはずの主イエスが復活され、キリスト教会の頭とされ、土台でもあるとされたのです。これは最終的にそのみ業(お働き)を為して下さるのは主なる神御自身ですということではないでしょうか。

・一体キリスト者は何のために努力をするのか、それは主なる神がおられることを証しするため、主なる神の栄光のため、神の国のためですが、主なる神についてのその理解は様々であることがあります。その時の一人一人の思いが異なるということがあります。また人は疲れを覚えると、ただ「しなければならない」という思いだけに捕らわれてしまったり、出来なくなるということがあります。それが人というものです。ですから、信仰を持つ者であったとしても無理をしない程度での働きで十分である時があるのです。福音書の中で「復活日」の朝早く、主イエスの墓に赴いた女性の弟子たちも、その「福音」を聞いて確めに来た男性の弟子たちもある「囚われ」の中にあったことが考えられます。それは悲しみと戸惑いと恐怖と不安でありました。実は主イエスの「復活」はそんな私たち人を主イエスは救って下さったという「福音」の出来事でもあったのではないでしょうか。

・13節に「激しく攻められて倒れそうになったわたしを 主は助けてくださった。」と記されていますが、『旧約聖書翻訳委員会訳 旧約聖書4 諸書』(岩波書店)では「私が突かれ突かれて倒れると ヤハウェが私を救った。」と訳されています。「ギリシア語訳旧約聖書」だと「お前が私を突きに突いて」という言葉に訳されています。この詩編作者は敵によって剣で突かれ負傷したか、そのような場面に出くわしたのかもしれません。

・旧約聖書の詩編作者はそのような時に主なる神に頼りました。主を避け所とするという意味でこの詩編作者は「義しい」とされてもいます。15、16節に「主の右の手」と記されていますが、これは人間の事柄に介入する主なる神のみ業(お働き)を表わす言葉です。人はたいていは利き腕が右なので、神の右の手が行なうことは素晴らしいと考えられたのかもしれません。主なる神に助けられての信仰生活が物語られています。

・先週の「イースター礼拝」には本当に久しぶりに来られた方々がおられました。また諸事情のため礼拝に来られなくて申し訳ないという連絡を下さった方もおられました。

その時、「イースター礼拝」では「聖餐式」に共に与ることが出来たことも感謝なのではないでしょうか。その礼拝後には「墓前礼拝」がなされました。「墓前礼拝」は一年に二回程度行われるわけですが、そのうちの一回の「墓前礼拝」も行なわれました。久しぶりに来られたご遺族の方々が本当に喜んでおられました。また「教会学校」では保護者の方々と共に新来会者の生徒たちが来ていました。諸事情のため、来られなかった生徒には教会学校教師がお家をご訪問し、卒業のお祝いの『聖書』を届けて下さり喜ばれました。それぞれ素晴らしい出来事で感謝のひと時であったわけです。

・この詩編118編は感謝に満ち満ちた歌です。人が思い煩ったり、苦しんだりする様々な「苦難」に対して主なる神の恵みを信じている作者の歌なのです。18節では「主はわたしを厳しく懲らしめられたが 死に渡すことはなさらなかった。」とも記されています。この詩編作者は自らの苦しみを主なる神が与えて下さった「愛」によるみ業(お働き)であるとしています。あるいはこの時代、古代イスラエルでは病気の人は穢れている者とされていたゆえに、病気の人を戒め清める体罰が必要であるとされたことを語っていると言われています。普通、現代人の考え方ではこれはおかしな話、非医学的な理不尽な話に聞こえるものです。キリスト教でも様々な信仰のあり方がありますが、信仰を持つ人の中でも、ある人にとっては理不尽に思えるような「苦難」が「神のみ業(お働き)」であるという事があります。ただキリスト教全体でそのように理解しないといけないというわけではありません。

・人が生きていく上で「苦難」は必然的なものかもしれません。そして、その時、人は「苦しみ」の向こう側にあるものを見ようとするものです。それを越えたり、克服したり、避けることによって私たちは生きる時があるものです。季節で言うと、寒い空っ風も去り、春ののどけさが訪れたということでしょうか。そしてそれは「イースター」の季節ですということです。「イースター礼拝」はキリスト教の歴史の中で、しばしば「光の祭」として祝われました。八瀬川の桜も夜間ライトアップされています。旧約聖書創世記1章3節には「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」と記されています。新約聖書ヨハネによる福音書には「私は」そして、「あなたがた」は「世の光」であるという言葉が記されていたことが想い起こされます。この聖書箇所で語られている「光」も主なる神によって造られたみ業(お働き)なのです。

・この聖書箇所19節にある「正義の城門」とはエルサレム神殿の前にあったとされる門です。主なる神によって「義しい」とされた人だけがその聖なる神殿に入ることが出来るとされました。そして27節には「祭壇の角のところまで 祭りのいけにえを綱でひいて行け。」と記されていますが、列王記上1章50節に「祭壇の角をつかむ」という言葉が記されています。それは神殿の祭壇に犠牲の動物の血が注がれたことから、角は最も聖なる部分、「贖罪」あるいは「罪の赦し」を示すもの、それを掴む事は命を狙う者からの守りを求めることを意味したと言われています。この聖書箇所で動物の血が祭壇に注がれた「贖罪」は主イエス・キリストの十字架を表します。

・旧約聖書時代に生きた古代イスラエルの人々は主なる神によって「義しい」とされることが素晴らしいことであると信じられました。主なる神に従い「律法」を守り、それによって救われることが全てだったのです。それは人としての「苦しみ」だけでなく、彼らの置かれた歴史的状況がそうさせたとも言えます。私たちは「プロテスタント」ですから、「律法」ではななく「信仰」によって救われたものです。

・以前から私たちが耳にしている言葉ですが、今年に入ってからも「地震」を始めとする「自然災害」関連の言葉をよく聞きます。しかし、それに慣れてしまうということはないようです。「戦争」や「軍備」「防衛」という言葉が、今までは、もちろんここ数年、私たちの耳に入って来やすい言葉となっています。しかし、本当はそれではいけないわけです。それは現実から逃げるということではなく、平和を祈り求めるという事が大切であるということです。「戦争」という言葉で私たちは国家間の争いか、それ以外の争いか、どちらを連想するでしょうか。今後、戦争について懸念する声が広がっています。

・「救い主」である主イエスの「復活」は、これらの言葉に対してどのようなものとしてあり得るのでしょうか。「使徒信条」が唱える「全能の父なる神」とは「主なる神はこれら全てを克服される方です。」ということでもあります。「神は全能である」ということはそのような意味でもあります。しかし、普通、人の目にはそのようには見えないのです。なぜでしょうか。この場合、人は「その神とやらは、どこにいて、何をしているのか」と思うものでもあるからです。またそれは人間自身の問題で、人間が解決していく問題でもあるからです。同時にその中で主イエスを信じる者はこのようにも思うのです。

それは様々にありますが、例えば「終わりの時に主なる神を信じる者は救われる」と。この「終わりの時」は今来ているのでしょうか。

・この聖書箇所25節に記されている「どうか主よ、わたしたちに救いを。」という言葉は旧約聖書が記された古代ヘブライ語で「ホサナ」と言って、「助け」「憐み」を表わす言葉です。主イエスご受難前のエルサレム入城の時の讃美の言葉がこれでした。27節に記されている「祝福あれ、主の御名によって来る人」という言葉は信仰深い古代イスラエル人を表わし、後に「救い主(メシア)」を表わす言葉となっていきました。

・主イエスの「復活」は終わりの時の救いの完成の先取りです。今、ここに救いがあると確信する時です。それは絶望と悲しみの中にあって「平和」を祈り求め生きた中での出来事です。「イースター」は「主のみ業(お働き)の日」です。私たちは自らを過剰に苦しめるほどの活動はしませんし、戦争や自然災害をただ驚いて受け入れるだけの存在ではありません。救われた者として生きる存在です。私たちは「復活」の主イエスに感謝し、その出来事を喜び祝い、私たちの信仰生活にとって大切なこととして覚え、祈る期節を歩みましょう。

 

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