主日礼拝説教:「聖なる者」ペトロの手紙T1章13−25節(新429頁)

川上純平  2024・4・14

 

・「復活節」の歩みの中にある私たちです。今朝の主日礼拝の説教題は「聖なる者」という題です。今朝の主日礼拝でも賛美されました有名な讃美歌351番「聖なるかな」の歌詞の中にも「聖なる主」という言葉が登場しました。主なる神が「聖なる方」であることが示されています。それではこの「聖なる」とはどういうことなのでしょうか。私たちの信仰生活との繋がりをこの聖書箇所から受け取りたいと思うのです。

・先ほど司会者の方にお読みいただきましたこの新約聖書ペトロの手紙Tはパウロによって宣教がなされた地域の小アジア(現在のトルコ)のとある場所でその地域の周辺のキリスト教会に向けて記された手紙です。ユダヤ地域以外の地域に住むユダヤ人のキリスト者に向けて記された手紙であるともされています。時代は紀元1世紀の終わり頃です。この手紙はペトロの名を借りて記された、つまりペトロがローマから送ったという設定で記された手紙であることが分かります。手紙の宛先であるキリスト教会はおそらくローマ帝国からの迫害のさ中にあったことを暗示させる内容で、克服出来ないような悲惨な状況にあってキリスト教の信仰を持つ者を励ましている手紙なのだそうです。

・この聖書箇所の主題は「福音」の本質に基づく希望に生きるキリスト者の基本的な生活態度、つまり「清い者」であること、「畏敬の念」と「兄弟愛」が勧められています。

・この聖書箇所13節以下ではかつて人が主なる神から全く離れて生きていた人生を今自らがいる新しい状況に合わせて、主なる神の目的のために人が主なる神によって選ばれ取り分けられねばならないということがある、それが「聖なる」という言葉の意味であることが記されています。

・しかし、これだけではよく分かりません。この「聖」という言葉は聖書では「神」について述べられる際によく用いられる言葉です。「聖なる書物」で「聖書」、「聖なる霊」で「聖霊」というように用いられる言葉ですが、主なる神を「聖なる方」と呼ぶのはユダヤ教で主なる神が絶対的な存在であるということです。それは他のものに制限されたり、左右されることなく、お独りで限りなく自由に存在し、あらゆることが出来るお方で、人とは異なる別の存在であるとされているからです。主なる神が世界をお造りになり、古代イスラエルの人々を言葉とその力でお導きになり、救いへと向かわせるお方ですということです。ただこの聖書箇所に記されていますこの「聖である」ということは主なる神は「律法」で定められた全ての「穢れ」「不浄」から切り離されたお方であるので、「神に近づく者」、「神から召し出された者(神から選ばれ招かれた者)」は清くあらねばならないということになります。これが主イエスが生きておられた時代、律法を守ることの出来ない人々を差別することにも繋がりました。ユダヤ教の指導者たちの一部は差別する自らを神の側に置いたのです。キリスト教では「聖である」ということをキリストを受け入れる全ての者にそれが適用されると考えたと思われます。つまり、神様との繋がりがある、信仰を持つことで誰でも「聖である」とされるということです。これは信仰の言葉であるわけです。

・この聖書箇所13節で「身を慎んで」とはしらふの目覚めた状態でいることです。そのようにして「終わりの時」(終末)の主なる神による「恵み」に備えなければならないということです。この聖書箇所に「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」という言葉が記されていますが、ある聖書ではこの箇所が「完全に(あるいは全面的に)恵みに希望しなさい。」と訳されています。この「恵み」は1章5、10節に記されたのと同じく「終わりの時」、「キリスト再臨の時」の主なる神の贖いの働き、救いの業であることを示しています。

・私たちはこの13節に記されたような思いで信仰生活を守っているのかと問われた時に、その通りの信仰生活だという方と必ずしもそうとは言えないのではないかという方に分かれると思います。私たちは今年の2月14日から特別に祈りつつ歩んできました。主なる神の恵みを確信して喜びの時を待ち望み、かつまた既に喜びの時を得ました。そして、今は「イースター礼拝」を終え、「復活節」を歩んでいる私たちです。その中でさらに将来に対して眼差しを向けています。私たちのこの教会と私たちの信仰生活の将来にです。具体的にどのようにしていくのかを共に考え話し合うのが来週の「定期総会」であり、その後の話し合いです。

・それでは私たちは「洗礼」を受ける時はどうだったのでしょうか、頭に冷たい水を数滴垂らしてもらうという儀式は、ただそれだけのことであるにもかかわらず、同時に教会での信仰生活に入ったわけですから、それで人生が変わったということでもありました。それは普段とは違う世界の幕開けでもあったわけです。つまり教会に通ったり、礼拝を守ったりし始める決断をされた時であったという事です。「主イエスを信じていくぞ」という思いを表した時でした。人によってそれは「清水の舞台から飛び降りる」覚悟で行われたものでもあったわけです。しかし、そこから毎週の日曜日の主日礼拝が特別な気構えではなく当たり前のものになっていくのが普通である場合が多く、逆に楽しいものであったり、それで教会生活にも随分と慣れてきて良かったということがあるわけです。一方で、先ほどのようにある一定の時代の信仰生活は随分緊張を強いられたような別の違う信仰生活なのではないかと誤解するようなものであったわけです。しかし、そもそもキリスト教は「終わりの時」を意識せざるを得ないような宗教として生まれ、その歴史が始まったものでもありました。当時、緊張した祈りの状態が続くような礼拝が普通に行われていました。その時代のキリスト教はまるでユダヤ教の「新興宗教」のように見られていたわけです。

・この聖書箇所14節以下には「無知であったころ」という言葉が使われています。これは悪口ではなくて信仰を持つ者となる以前の状態のことを言います。おそらくこの手紙の受取人たちが主に外国人(ユダヤ人でないということ)であったことを暗示しています。しかし、彼らは「洗礼」を経てからは主イエスに「従順な」者となりました。それでそのような者として主なる神に倣って信仰を持つ者は生活の全ての面で「聖なる者」とならなければならないことが記されています。それは16節に引用された旧約聖書レビ記(11章44節)に「わたしは聖なる者だからである」(主なる神は聖なる者だからである)という言葉が記されているからということです。

・さらに17節以下ではもし人が新しい自らの人生を適切に歩みたいのならば、古い人生を捨て去るだけでそれを行う事が出来るとされています。この聖書箇所での「仮住まい」を意味する言葉は古代ギリシア語で外国での比較的長期の生活を意味する言葉です。この時代、そのキリスト者の人々は外国での比較的長期の生活を余儀なくされていて、その当時の宗教(皇帝崇拝、ユダヤ教)や外国の文化(ギリシア・ローマ文化等)によって常に脅かされていたようですが、キリスト者も主なる神によって決められた優先事項を守らなければならなかったことが記されています。これは現代のこの教会なら「キリスト教ではこれが常識です」ということだけでなくて、周りの状況を見て、キリスト者である私たち一人一人が決める、あるいはこの教会が決めるということでもあります。

・この17節では終りの時の「裁き」について記されています。私たちもこの礼拝で使用しています「主の祈り」の時に「天にまします我らの父よ」と呼びかけていますが、キリスト教信仰を持つ者は主なる神が裁きの神であるということについては特別な従順を求められるということです。キリスト教信仰を持つ者と主なる神による裁きとの関係はどうなのかということです。」しばしば聖書で語られる「終わりの時」に全ての人は主なる神によって「救われる者」と「救われない者」とに分けられるという教えですが、この教えは戦時中、特に日本基督教団では合同成立前に「ホーリネス教会」という旧教派に属した教会に向けて軍部による言い掛かりがなされた教えでありました。それは「終わりの時」には天皇も裁かれるのかという言い掛かりによる迫害でした。その時、「ホーリネス教会」は日本基督教団に見捨てられて解散させられ、戦後、教団総会でその事についての「悔い改め」の祈りがなされました。私たち日本基督教団が戦時中に軍部による戦争を賛美しこれに賛成したと同時に、軍部から宗教への迫害があったこと、そのこともあり「教団戦責告白」、「教区罪責告白」を覚えるわけです。

・興味深いことにユダヤ教(旧約聖書)の一貫した考え方として主なる神は人を偏り見ることをしないお方であるという教えがあるとされています。これは聖書に基づきます。皆様の目の前にあるスクリーンに旧約聖書申命記10章17、18節(旧298頁)の言葉が映されています。「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」と記されています。新約聖書もこの教えを受け継いでいます。これもスクリーンをご覧下さい。そこに新約聖書使徒言行録10章34、35節(新233頁)が記されています。「そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」と記されています。

・つまり、キリスト者なら主なる神への信仰を持っているのですから、主なる神は偏った方ではないので、私たちは「終わりの時」も安心して主なる神に聞き従いましょう、弱者の権利を守り、それゆえに酷い状況に置かれている外国人を支援しましょうということです。これは歴史的に状況によってキリスト者の信仰生活や姿勢が変化しているわけですが、聖書に基づく主なる神についての大切な教えや生き方をいかに守っていくかということがあったわけです。現代日本社会のキリスト教会ではどうでしょうか。

・この聖書箇所17節では主なる神に対する「畏敬」(畏れ敬うということ)は決して恐怖ではなく、子供が父親に対していだく尊敬の念に似たものであるとされています。キリスト者が「祈り」の中で主なる神に対して「父よ」と呼び掛けることは親密な主なる神との関係を示す言葉です。それは主イエスが教えて下さった「主の祈り」の神に対する呼びかけの祈りがそうであったようにです。同時に、近年、主なる神を「父」として考えるのは古代イスラエルの「家父長制」(男性である父親を中心とした家庭制度)から出来た「物言い」であるということから女性神学者から性差別的な表現であるという主張もなされています。これへの反論としては主なる神を「父なる神」とするのは古代イスラエルの人々が「バビロン捕囚」の際に異なる宗教の神々を礼拝させられ(偶像崇拝)、それらの神々が女性であったので、これに対して聖書が証しする神は「父なる神」であることが強調されるようになったという説です。いずれにしろ昨今の現代日本の家庭事情の変化も私たちは考えなければなりません。

・この箇所18節で、主なる神は人々を贖い出し、解放して下さったお方であることが主張されています。聖書のこの箇所での「先祖伝来のむなしい生活」という言い回しは14節と同様にキリスト教信仰を持つ以前の他の諸宗教を信じる者としての生活を示しています。これはキリスト教信仰を持った人々に対する言い回しの言葉でもあります。ですから、キリスト信仰を持つ者としての「新しい」生き方によって克服された既に「古い」有り様のことが記されているとされているわけです。この言い回しは私たち日本人の感覚からすると、分かりにくいものであることも事実ですが、キリスト教の信仰では「聖書」が特別な書物で、自らが信じる神様がどのようなお方なのかということと関係する言葉でもあるわけです。

・この聖書箇所には旧約聖書出エジプト記の「奴隷」の状態からの「贖い」が暗示されています。「贖い」は新約聖書ではキリストの「受難」に関連して用いられた言葉です。キリストの「贖い」がその当時のキリスト者の「終わりの時」が近づいている信仰生活を送る中で「希望」という言葉と結びつき、清い生活や新しい神の民、つまり、教会を形作る要因となった箇所です。更にこの聖書箇所は「洗礼」との関連が強調されているとされています。

・18−21節はおそらく「洗礼」についての当時、出来て間もないキリスト教会の教えが反映しているのではないかと思われます。19節には罪の贖いのための犠牲の捧げものとなる小羊のようにキリストが私たちのために血を流すことによって代価が支払われたと記されています。「キリストの尊い血」が「贖い」と結びつけられたのは旧約聖書イザヤ書53章の「苦難の僕」の姿に基づくものです。ここではそれが「きずや汚れのない小羊」の血と表現されているので、旧約聖書出エジプト記12章に記された「過越の小羊」のイメージが強いと思われます。キリストの「死」が「贖い」であるとは罪が除かれるというよりも、私たちが罪に捕らわれた状態から解放されるという理解を示していると言えます。しかもそれは主なる神ご自身の「御子」が献げられたという最も尊い犠牲によるものです。ですから、キリスト者は今や主なる神が導いて下さるという歴史の目標を知っているので(20節)、死者の中から「復活」された「神の子」キリストによって自信を持って自分たちの将来を望み見るのだとされています(19、21節)。

・20節はキリストについての説明が記されていますが、これは当時の讃美歌を引用している可能性があります。主なる神の救いのご計画のクライマックスとしての歴史の終わりの時のキリストの出現が強調されています。これはまた当時のキリスト教会の「信仰告白」かもしれません。これまで隠されていた主なる神のご計画の目的はキリスト者を救いに入れることであったとされています。

・21節でキリスト者の信仰と希望はキリストを復活させ、栄光を与えられた主なる神に対するものであることが今一度語られます。ある聖書ではこの箇所は「こうしてあなたがたの信仰は神に対する希望でもある」と訳されています。キリスト者の「信仰と希望」の目標も源泉も主なる神であることが示されています。

・しかし、キリスト者の信仰と希望の関係にはどのようなものがあるのでしょうか。その全てが会堂での礼拝の場に関する事とは限りません。例えば、最近、絶滅寸前の生物や環境破壊についてのテレビ番組が多く放映されていると私が思うのは気のせいでしょうか。これは人が環境について未来に希望を持ちにくくなっている証拠でもあります。この問題に対しては今からでは遅すぎる取り組み、今からでも間に合う取組みがあります。キリスト者なら信仰と希望を持ってこれに関心を持つべきかを考えたり、取り組んだりするということでしょうか。そもそも私たちは自然に触れた時に、驚いたり、感動したリ、恐れたりする存在ですが、主なる神が造られたこの世界が破壊されているにもかかわらず、あるいはそれゆえに信仰と希望を持って祈るということもそうです。様々に考えられますが、普段のゴミの出し方、処理の仕方もそうでしょうか。今、沖縄が重要です。環境破壊の問題もありますが、日本基督教団の課題としては沖縄教区との関係や沖縄の自衛隊基地・米軍基地等の問題への関り等があります。

・22節は「聖なる者」としてあるべき姿を教会はどう実現するのかを語っています。そして、その中心は「兄弟愛」であるとされています。洗礼を受けたキリスト者が「兄弟愛」に生きるべきことが勧められています。この聖書箇所の「魂」は洗礼の時に聖霊によって清められ(1章2節)、新たに生まれた(1章3、23節)キリスト者の肉体の状態を示しているとされています。「兄弟愛」は血肉関係を超えたキリスト者の絆ですが、それは主イエスの愛に基づくものです。それはこの当時のキリスト教会では主イエスの再臨に備えて堅実に日常生活を生きることでした。他のキリスト教会を応援したリ、そこから訪ねて来た信徒をもてなすことを含んでいたことが考えられます。この聖書箇所22節に記された「清い心」は「偽りのない誠実さ」という意味の言葉です。「深く」という言葉は「たゆまず熱心に」という意味の言葉です。ですから、22節は「あなたがたは、主なる神は恵み深いお方であるという信仰を持って、肉体を清め、偽りのないキリスト者の絆を抱くようになったのですから、偽りのない誠実な心でたゆまず熱心に愛し合いなさい。」という言葉になります。しかし、この「清い心」とは、今で言うと、具体的には何でしょうか。

・現在、パソコンやスマホ等で扱う「インターネット」は使いようによってはその情報が信仰生活やより良く生きるということにとって良い影響を与えることになるのかもしれません。ただ「インターネット」の世界はそれだけでは人と人との関わりが蔑ろにされ、「ヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)」でごまかされて、誠実さを欠いてしまい、現実を生きる力を失う問題があるということが現代の課題でもあることは言うまでもありません。私たちの信仰生活はヴァーチャルな神様を拝んだり、ヴァーチャルな人との交わりの時を楽しむということではないのです。礼拝後の「お茶の会」等がこれからも自由な交わりの時として有意義に用いられることを祈ります。

・23節ではそのような「兄弟愛」が可能となるのは信仰を持つ者が「新たに生まれた」者だからでもあると記されています。それらの生き方を可能にするその根拠は「神の言葉」にあります。それは人に「命」を与え、人を造り上げる源です。それは11節の「キリストの苦難とそれに続く栄光」を意味します。主なる神の恵みによって私たちはそのように生きるのです。

・24−25節ではこのキリスト者の生き方が新しい主なる神の現実に生きるものであることを著者は旧約聖書イザヤ書(40章6−8節)を引用することで説明しています。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」八瀬川の桜も満開が終わり、花は葉に変わり始めています。預言者イザヤはこの言葉で「バビロン捕囚」にあって気落ちしている古代イスラエルの人々たちを慰め励ましたのですが、この手紙の著者はこの言葉で主イエスの復活によるキリスト者の新しい生の現実を語っています。

・洗礼を受けた方にとっても受けていない方にとっても主イエスの「十字架」と「復活」の出来事は歴史的な現実です。それは主なる神の栄光の現われでした。キリスト教会はそれゆえに生まれたわけですから。私たちはこれからも「聖なる方」である主なる神に従い、新しく生まれた者として「兄弟愛」によって永遠に変わる事のない主のみ言葉に聞き従っていく者たちです。私たちもこれからも気落ちすることなく、主イエスの復活に結びついた生きた信仰生活を歩んでいきましょう。

 

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