主日礼拝説教:「霊の結ぶ実」ガラテヤの信徒への手紙5章13−25節(新349頁)

川上純平  2024・4・28

 

・巷では「ゴールデン・ウィーク」に入り、春の草花が咲き乱れる季節になって来ました。季節が進むにつれ、植物の花がさらに実を実らせ始めるのも楽しみです。教会の庭もお手入れして下さり、礼拝前と祈祷会前に会堂玄関前で賛美の歌声が聞かれ、道行く人もいろいろと教会に関心を持って下さると思います。感謝したいと思います。

・今、教会の暦は「復活節」ですが、今も「イースター気分」ということは果たしてあるのでしょうか。それはそれで喜ばしいのでしょうが、今日は最高気温は三十一度に達するらしくて「暖かい」と言うよりも夏に近い「暑い」日さえもある、そのような季節を過ごしている私たちです。私たちのこの教会は「八幡町(はちまんちょう)」に建てられていますが、この「八幡」という地名は日本各地にあります。地域によってはこれを「やわた」ともお読みします。それでその多くが神社に基づく名称だそうです。この地域も近くに小高い山があってそこに「八幡山古墳」があり、その上に「大島八幡神社」が建てられています。「応神天皇」を祀っている神社だそうです。「八幡町」はそれに基づく町名であるわけです。

・それでこの教会の近くに皆さんが車を停めておられる駐車場がありますが、そこに「八幡町会館」があります。そこでは毎週日曜日の朝に買い物がしにくい方々のために「八幡町野菜朝市」が行われています。それが最近、内閣府による社会参加章を受章したという話をお聞きしました。積極的な社会活動に励んでいたということが評価されてのことのようです。ある意味でそれも一つの「実を結んだ」ということでしょうか。

・先ほど司会者の方にお読みいただきましたガラテヤの信徒への手紙ですが、これを記した伝道者パウロは西暦6年頃に地中海世界、当時、「小アジア」と呼ばれた地域の中央部に位置するガラテヤ地方に赴き伝道を行なってキリストを信じる者たちの群れ、教会が生まれたと考えられています。皆様、お手元の『新共同訳聖書』の「聖書地図8 パウロの宣教旅行2,3」の中央部分にその地名が記されていますので、ご参照下さい。この手紙はその教会に充ててパウロが紀元50年か51年頃、古代ギリシアのコリントという町にいた時に記したとされています。

・聖書のこの箇所ではキリスト教信仰の生活の基本について述べられています。それは私たちキリスト者(クリスチャン)が教会生活を行なっていく中で身に着けていなければならない必修の事柄であるとされているわけです。しかし、それはパウロの見解としてそうですということでもあります。同時に聖書のこの箇所に記されている私たちキリスト者にとって当たり前のような内容、もしかしますと、内容の一部はそうでないかもしれません。私たちはキリスト教信仰によって生きて、そして、そのキリスト者の生き方、難しい言葉で「倫理」と言いますが、その「倫理」を重んじるわけですが、しかし、それはキリスト者であっても、私たちはそういうことはあまりないと思いますが、ともすると単なる道徳的な生き方に陥りやすいものです。またそれは理想を掲げているに過ぎないで終わったり、人を裁いたりしやすいものでもあります。

・ですから、これは本当は主イエスにお会いして自らが「救われた」というその「信仰体験」がまず先にあって、「洗礼」を授けられ、主イエスと共にある信仰を持って生きていくということです。そのような信仰生活を土台として「倫理」と言い換えることが出来るかもしれません。

・これには様々な理解があります。例えば、一度「救い」を体験をしたからと言って、それでは完全な者となったわけではない、それがキリスト教信仰生活ですという立場です。さらにその際に絶えず「聖霊」によって、主イエスによって新しくされなければなりませんという生き方も幾つかある内の一つの理解に過ぎません。逆に自分は既に救われた者であるのだから、救われた者らしく生きるのだとする立場もあるでしょう。

・そうしますと私のこのキリスト教的な生き方だけが最も正しい理解に基づく生き方なのだと主張し、それが他者に強制されますと、今度は「自己欺瞞」や単なる「自惚れ」になることもあるのがまさに人間の秘密であるのではないでしょうか。

・そこでは主なる神の御業が全く働かないのではありません。そうではなくそれよりも広く深い主なる神の愛が働いているのが分からなくなってしまうということです。ですから、お互いが育まれるようにキリスト者同士が祈っていくことが大切であるわけです。

・先ほど司会者の方にお読みいただきました聖書箇所13節に記されました「愛」という言葉は主なる神による「愛」を意味します。それは主イエスの「愛」に根差したものです。しかし、よくよく考えてみますと、私たちは毎日の生活が主なる神の愛に溢れた生活です。礼拝を行う事が出来るということ、生活が出来るということ、生かされているということ等全てです。それでは逆に「愛のない世界」とは何でしょうか?この場合の「愛」は主なる神の愛だけが全てであるとは限りませんし、それはケンカばかりしている世界、ただ熱いだけか、冷たいだけの世界です。争い、滅ぼし、滅ぼされ、両方が潰れてしまいかねない世界です。宗教を重んじるはずのイスラエルと他の中東諸国でさえもそのような状況があります。宗教が悪用された世界でもあります。武器に対して武器で勝負をする世界となっています。しかし、それでは、いつまでも安心出来ない世界です。主なる神がお造りになったこの自然の世界を大切にしないといけないのに、それをしない世界であるのに似ています。

・ですから、もし本当に「愛」、特に聖書が証しする「主なる神の愛」を優先させるなら、人はどう生きるべきなのでしょうか。聖書のこの同じ箇所13節に「肉に罪を犯させる」という言葉が記されています。これは自らの欲望を追い求めるために「自由」を悪用することを意味します。それは「自由」であることそれ自体は素晴らしいものだということは皆様もお分かりだと思いますが、使い方によってはそれが危険なものとなる事を意味します。この手紙を記したパウロは「律法」によって救われようとしたために自らの罪深さに束縛されるということに陥りましたが、主イエスへの信仰によって「自由」にされ、その「自由」は罪の束縛から「解放される」ということでした。ですから、私たちキリスト者は主なる神に促され、お互いに「僕」になるということが本来は重要なのです。つまりこの「自由」は「お互いに仕える」ということです。相手のことをお互いに思うということです。これはお互いに感謝しないと出来ないことなのです。もしかしますと、これは難しい事なのかもしれません。つまりお互いに「ありがとう」の気持ちを持つということですが、それが出来るとは限らないのが人というものです。もしかしますと、素直に「神の国」に優先的に入ることの出来る子供ならこれは直ぐに出来るのかもしれません。しかし、誰が私たちの隣の人、隣人なのでしょうか?主イエスは福音書の中で誰が自分の隣人なのかではなく、あなたがその人の隣にいてくれる人、「隣人」になりなさい、ということを仰いました。実際、主イエスはそのように生きられました。ですから、それが非常にしにくくなった「コロナ禍」という出来事、これは悲惨な出来事であり、また私たちに様々な事を気付かせた出来事でもありました。

・実はこの聖書箇所14節に記された「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉は、旧約聖書レビ記等、他の聖書箇所から引用された言葉です(レビ記19章18節〈旧192頁〉、新約聖書マルコによる福音書12章31節〈新87頁〉、ローマの信徒への手紙13章8−10節〈新293頁〉参照)。パウロは旧約聖書に記された「律法」という絶対的に守られなければならないとされた決まりが実は「救い」の手段ではなく、むしろ主なる神のご意志、御心であると考えました。ですから、この聖書箇所で「隣人愛」が新しい「戒め」となり、それによって主なる神のご意志が全うされる、完成されることが語られているとする解釈もあります。

・「他人を愛することが出来ないと、自分を愛することが出来ない」という言葉があります。主なる神に感謝して「ありがとう」をお伝えするということは、主なる神に祈り、「ありがとう」という気持ちをお伝えするということです。それは分かるのですが、ただ人は「お互いに隣人になりましょう」と言われても、状況によっては直ぐにはそう簡単に出来ないのかもしれません。まず自分のことや「隣人」そのもの以外の他のことに心を奪われ易いのが人であるからです。逆に人は人間関係ばかりを気にするということがあるかもしれません。ましてや私たちは日本人がほとんどですから、なおさらであるわけです。

・そして、そうであるにもかかわらず、人は15節に記された事に直面することがあるわけです。15節に「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」という言葉が記されています。この聖書箇所15節に記されました「共食い」という言葉は古代イスラエルから始まったキリスト教会の歴史の中でさえも様々にこれが繰り返されてきたことを表しています。教会と教会との間で、教会の中で、派閥争いや喧嘩をすることによって、人が集まらなくなり、結局、キリスト教会自身が困ることになったことをキリスト教会はキリスト教の歴史や現実から学びました。果たして将来の世界のキリスト教会の形はどのような形が望ましいのでしょうか?主イエスにおける「交わり」は主なる神の愛によるものなのです。

・一方、他の諸宗教にとって主イエスの「十字架」はどのようなものとして受けとめられているのでしょうか。通常、他の諸宗教にとって「十字架」はあまり関係ないものですが、日本及び世界の他の諸宗教を信じる方の中にそれを「救い主」主イエスの十字架として信じ、その諸宗教から回心して、キリスト教の信徒になる方がおられることがあります。日本及び世界でキリスト教から他の諸宗教になびく方もおられます。その他の諸宗教も様々ですが、大切なことは「あなたにとって『救い主』である主イエスの十字架とは何ですか」ということなのではないでしょうか。主イエスの「十字架」、それは少なくともキリスト者にとっては主なる神の「救い」のお働きを表すものであり、「キリストの体」である全てのキリスト教会を表すものです。

・16節以下でパウロは自分はこう言いたいのですと記しています。16節に「聖霊」の導きに従って歩むということが記されていますが、この箇所に記されている「歩く」ということは宗教的・道徳的な意味での生き方を表します。そうすれば、自らの欲望を満足させるだけの生き方ともお別れする事が出来ると語られています。この時、パウロはどのような状況だったのでしょうか。続く17節に「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたい、と思うことができないのです。」と記されています。パウロは他の手紙、ローマの信徒への手紙7章15節(新283頁)では「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」と同じような事を記しています。これはもちろんパウロが律法では救われないと悩み抜いた末の彼の見解です。つまり彼はキリスト教信仰によって救われたのです。

・それでこの箇所17節に記された「霊」は「聖霊」を意味します。「聖霊」は人にキリストへの信仰を与えたり、人に「み言葉」を語らせたりする主なる神の力です。ですから、聖書のこの箇所に記されました「霊の望むところ」とは「隣人愛への奉仕」もそうであると思われます。もっともそれも例えば自らの利益のために行われる偽善であるなら、「肉」に従うことにつながっていきます。この聖書箇所は人の中では「肉と霊」という相反する二つの勢力が戦っていて、その人が何も出来なくなってしまうことを記しているのです。この聖書箇所の「肉」という言葉は「物質的な事柄に従うこと」「欲望」のことですが、「律法」を意味する言葉でもあります。ある人はこれを人が「神」を忘れることであるとしています。「欲望」は人が生み出すものでありますが、その一方で「聖霊」は主なる神によって生み出されるものです。もちろん、私たちは「食欲」のように「欲」が完全になくなってしまうなら、食事は出来ず、健康を害してしまいます。ある方のお話で、体調を崩して、それが回復して良くなった時に医者から「食欲が出て良くなってきたようですね」と言われ、どういうわけかあまり嬉しくなかったという誤解をしてしまったというお話をお聞きしたことがあります。ですから、そのような意味で「欲」というこの言葉が使われているのではないのです。

・そもそもパウロはユダヤ教の「律法」を守って救われようとしても救われず、それだけでは「罪」の意識だけが強くなって悩み苦しむことになってしまっていました、ですから、この聖書箇所でパウロは自らの体験からキリストへの「信仰」ゆえの「救い」を説いているわけです。その信仰は「聖霊(主なる神の霊)」の働きがあるゆえのものですし、それはパウロが言うところの「肉」、つまり「律法」に対立するものです。

・パウロはそこから「聖霊」の働きによって満たされた者はこの箇所19−21節で述べられている「肉の業」、姦淫、争い、ねたみ等の虜にはならないと説いています。そこに主イエスに従う生き方が望まれています。私たちは「礼拝」、「祈り」の時が重要であるという事を自覚していますが、それには日々の信仰生活が重要であることが結びついています。

・この箇所の20節の「偶像礼拝、魔術」は、この時代もそうですが、その当時、「偶像崇拝」と「魔術」の二つが結びついて行われていた出来事があったゆえに禁止しているものです。現代ではカルト団体の「オウム真理教」がそうであったのではないでしょうか。新約聖書の時代、「魔術」はしばしば「薬物」を用いて行われていたとされています。「オウム真理教」も薬物を用いて「マインドコントロール」をしていたそうです。

・それに対して21節の「神の国」は「天国に入ること」「主なる神がお治めになることの実現」「キリストの来臨」等を意味します。新約聖書コリントの信徒への手紙T6章9−10節(新306頁)には「正しくない者が『神の国』を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」と記されています。

・ガラテヤの信徒への手紙に戻りますが、5章21節に「以前言っておいたように」と記されています。それが先ほどお読みしたコリントの信徒への手紙T6章の「神の国を受け継ぐことが出来ない」という言葉が記された箇所なのです。同様にガラテヤの信徒への手紙5章21節の「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」という言葉は、パウロがしてはいけないと記していることを含めてパウロが大切にしている事を守ることによって「神の国を受け継ぐこと」が出来ると発言していることになります。この「受け継ぐ」という言葉は「財産相続」を思わせる言葉でもあるそうです。それは主なる神の恵みに基づく「復活」と「永遠の生命」等です。「終わりの時」に到来する「神の国」ではキリスト者は完全な者となるとされています。

・聖書のこの箇所5章21節で「その他このたぐい」として挙げられるものとして、おそらく例えば「男色」が挙げられるのではないでしょうか。これに関してキリスト教の歴史で聖書時代から現在に至るまで「同性愛者」に対する差別が行なわれてきたのは事実です。つまり「同性愛差別」が行われて来たわけですが、その差別は聖書的な態度とは言えないのではないでしょうか。新約聖書の他の箇所でパウロがこれに類する差別的な発言を自ら記していますが、その事は彼も人間であり、差別者であった、そしてそこには時代的な限界もあったということを覚える必要があります。もちろん現在キリスト者の中でも特にアメリカの保守的な福音派には「同性愛は良くない」とする立場の人々が数多くいるというのも事実ですが、逆に現在、日本基督教団では教えや決まりでそのような差別が正当化されてはいないことも覚える必要があります。つまり中途半端で終わっていることも確かです。

・一方、22節以下で「霊の結ぶ実」「神の国」を示すものについて記されています。それは様々に考えられます。この聖書箇所で、まず最初に記されているのが「愛」です。これは「恋愛」や「人間愛」や「偏愛」ではなく、主なる神による「愛」、十字架のキリストの「愛」に基づく「愛」です。私たちは恵まれた中にあります。、またキリスト教は主なる神の恵みに感謝して様々な取組みや展開を行ってきたという歴史があります。しかし、現代社会では特に今、世の中で自分が愛されていないという思いを持っている人が多いという現象やそれに基づく事件が多く発生しています。それを信仰的な、そして社会的な取組みによって解決する事が出来るかどうかということもキリスト教の「宣教」の取組みの一つとして今後は重要なのではないでしょうか。「宣教」や「牧会」という枠組みで様々な展開が考えられます。そこにはキリスト者でない人々との共同作業や取組みも考えられると思われます。

・22節の「平和」という言葉について、今も行われています世界各地での「戦争」を想い起こしますが、パウロの場合、「平和」は信仰を持つ者が主なる神に対して持つ新しい関係でもあると考えているようです。22、23節についても、例えばこれらが自らの利益のために行われる偽善であるなら、それは「肉」に従うことに繋がっていきます。23節の「柔和」は「怒り」や「争い」を無くすことを意味します。24節には「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」と記されています。これはキリストを信じる者となったことにより、「律法」や「欲望」等を「十字架」に付け、「古い自分」(ローマの信徒への手紙6章6節)としての「私」と決別したことを表します。それは「律法」では解決しないことが解決したということ、「律法からの解放」を意味します。

・25節の「前進」という言葉はそもそも「兵士が隊を整えて進む」ことを意味しますが、この聖書箇所では「戦争」の賛美が記されているのではありません。そうではなくキリスト者が「聖霊」に従って現実の状況で生きることを意味します。そこには強制的になされるのではない、「ブレない」キリスト者としての責任が伴います。

・キリスト者とは、かつての古い自分自身がキリストと共に死んで、再びキリストの「命」に甦り、新しく清くされた者たちです、古い自分の悪しき事柄は過ぎ去り、「聖霊」による「実」が結ぶようにされた者たちです、それがパウロの信仰体験であったわけです。私たちはこの聖書箇所に記されていること全てのとおりに信仰生活を過ごしているとは限らないわけですが、むしろ「霊の結ぶ実」をこれからも重んじて歩んでいきたいと思うのです。

 

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